オスロ Oslo

オスロ Oslo

ブロードウェイ
オスロ Oslo
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オスロ合意は1993年にイスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)との間で交わされた。舞台は1992年のカイロ。そこに住むノルウェーの社会学教授ラーセンは、学問の関係でイスラエルやPLOに知り合いが多かった。そこで社会学の観点から平和を見いだすアプローチとして双方が顔を合わせて話すことが出来ないかと考えた。彼はイスラエルの大学教授二人とPLOの役人二人に的を絞り、参集を画策した。ちなみにPLOの役人のひとりは、後にパレスチナ自治政府の首相となるアフマド・クレイ氏である。当時両国とも相手国と連絡を取ると刑事罰の対象になり、パレスチナでは死罪と決まっていた。そこでこのミーティングは極秘の内に進められた。ラーセン夫婦の努力の下、会合は何度にもわたり行われ、相互承認を繰り返した。細かい交渉は、舞台の中央後ろにある扉の奥で行なわれている設定なので観客にはわからないが、少しづつ会話が交わされ、 お互いが相手に心を開くようになる工程が窺える。一人のノルウェー人が理想的な考えの下、外交官となって両者の会話を促して行き、オスロ合意が交わされた歴史の一部分を描いている。最後には座席通路に立ったラーセンが、「二つのグループの会話を始めるという、あり得ないことを可能にしたこの工程から、何かを学びたい」というメッセージが観客に贈られる。ラーセン役は1度トニー賞を受賞しているジェファーソン・メイズが演じている。

コメント

アメリカの劇場文化はユダヤ人とゲイから成り立っている、と言っても過言ではない程、脚本家、プロデューサー、劇場のオーナーにユダヤ人は多いし、観客もユダヤ人が多い。そういうブロードウェイだからこそ、こういう作品も出てくる。しかし、彼らにとっては身近な話だが、中近東の歴史を深く知る機会があまりない日本人には、なかなかわかり難い作品であろう。そこで、早わかりヒストリーみたいなものを簡単に書いてみた。

今イスラエル、パレスチナと呼ばれている地域は元々ユダヤ人が人口の大多数を占めていた(勿論遡るのが可能な限りでの話)。それからキリスト教徒が多数の人口を占めた短い時期もあったが、12世紀の末期から、オスマンの征服により回教徒が大多数を占めるようになる。そして巨大に膨れ上がったオスマン帝国が滅亡する第一次世界大戦終了までの1600年間、パレスチナではアラブ系民族の流入と増加が続き、一方多くのユダヤ人が海外に逃げることになる。19世紀後半、ヨーロッパでの偏見に耐えかねたユダヤ人の間でイスラム、エルサレムへの帰還運動が起こる。彼らは主に東欧やロシアで虐待を受けていた人々で、各々数万人単位の人々がオスマントルコ支配下のパレスチナへ帰還し始める。土地を追われるユダヤ人のミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』では、その歴史が重要な要素になっている。さて第一次世界大戦に勝利した英国は、1918年よりパレスチナを任意統治した。1914年の統計では人口の9割以上をアラブ民族が占めていたが、ユダヤ人の移住は続いた。英国はユダヤ人の土地の購入と移住を禁じたが、国境を越えて入ってくるユダヤ人は多く、アラブ民族とユダヤ民族の間で争いが増すばかりになった。そして第二次世界大戦が勃発。ナチスの手から逃げ出すユダヤ人を受け入れる国は皆無に等しく、元の国に戻されてナチス強制収容所で多くが殺害された。終戦後「もし同じことが起きたら逃げられる自分たちの国が必要だ」と訴えるユダヤ人への同情心が世界的に高まる中、1947年国連によってイギリス領地のパレスチナの一部がユダヤ人に与えられイスラエルとなり、残りがパレスチナ人に与えられ、イギリスは手を引いた。周囲のアラブ諸国はただちに反応。連合軍を結成してイスラエルに侵攻する。これがその後第四次まで続く最初の第一次中東戦争である。その時、アラブの連合軍の呼びかけもあり、激戦の地となるであろうイスラエルからパレスチナ人が数十万規模で逃げ出した。当時、イスラエルには戦闘機がアラブ連合軍の10分の1しかなかったが、世界の予想に反し、他の国の軍隊の力を借りずに約1年後、最初にイギリスから受けたイスラエルよりも広い領域まで勝ち取る結果となった。

この第一次中東戦争以降、不在者の土地の所有権を没収可能とする国法の元、世界各国からの移住者によりイスラエルに住むユダヤ人の人口は増加していった。そして欧米を背景とするイスラエルと、アラブ諸国を後ろ楯とするパレスチナとの対立が鮮明化し、現地では暴力の応酬が繰り返されることになるのである。第三次中東戦争で、イスラエルは更にウェスト・バンク全てとガザ、そして今のエジプトの領土の一部まで勝ちとった。その後エジプトの領土を返還したが、ウェストバンクとガザは占領地とし、多くのユダヤ人が移住した(今のウェスト・バンクのユダヤ人人口は75万と言われている。1987年からこれに抵抗したパレスチナ人により、一連の暴力的諸事件(第1次インティファーダ)が起こる。併行してガザではユダヤ人の破滅を掲げるハマスの率いる過激な団体が生まれ、テロが各地に勃発した。

これらの紛争と暴力に疲弊したイスラエルとパレスチナの両者が、将来に向けていろいろな思いを抱き、妥協をしながら、平和を目指して結んだのが1993年のオスロ合意だった。オスロ合意はこの地域で共存するために生じるいろいろな問題を話し合いで解決をしていこう、という内容だった。それによって、パレスチナ自治政府が認められ、ウェストバンクのパレスチナ人地域に以前より自由が与えられた。しかし、締結した双方の首領ラビンとアラファトの死亡などの理由により紛争や戦いは続き、話し合い開始の前提となっていたイスラエル軍の占領地からの撤退が進まず、未だに平和は訪れていない。イスラエルのラビン首相は、同国の右翼青年に暗殺されたのだが、このように同民族とはいえ思想的にはいろいろな人がいるわけで、これらの人々を平和裏にまとめていくのが、まさにこの地域の政治の難しさなのである。民族の恨みを子孫の世代に伝承しようとするイスラム文化にも要因があると思われるが、今この時に異教徒、異民族への思いやりや配慮が生まれるわけはなく、和平は簡単には進まないだろう。世界的に領土内の民族の人口構成は、政治的安定のためには重要な課題である。海に囲まれ移民が少なく、この手の問題とほとんど無関係に過ごして来たことに日本人は感謝すべきだろう。

メディア評

NY Times: 9
Time Out : 8
Variety: 9

Lincoln Center – Mitzi E. Newhouse Theater
150 W. 65th St.
尺:2時間55分 (2度の休憩含む)

舞台セット ★★★★☆
衣装 ★★★★☆
照明 ★★★★☆
総合 ★★★★☆

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