背信
あらすじ&コメント
そんな待望感を持って先日、公演されているバーナード・B・ジェイコブス劇場に向かった。とはいえ浮きうき気分ではなく、軽い気持ちは捨てて行った。というのも彼の作品は三角関係を題材している作品が多く、およそハッピーエンドからは、ほど遠いからだ。案の定劇場に付き席に座ると、非常に簡素な、装飾を排した舞台が眼前にある。舞台と観客を仕切る深い藍色のプレセニウム・アーチ(舞台枠)と、そこにかかる黒の緞帳(どんちょう)は、いずれも反射のない生地で織られていて華やかさとは対辺にあり、これからの始まる話の展開が予兆されている。
やがてその時が来る。重く黒い緞帳は、ゆるゆると、本当にゆっくりと上がって行く。すると舞台に現れる椅子には、二人の男性と一人の女性が座っている。それぞれの観客をみると言うでもなく視線が正面に向いている。それでも緞帳は上がっていく。やがて舞台の奥に幾筋もの光が見え始め、少しずつ天井を手前に伸びてきて、劇は始まるのだった。
舞台の3人は、出版業界でエージェントをしている既婚者ジェリーと、彼の長年の友人で出版社に席を置くロバート。そしてそのロバートの妻で、ジェリーとは2年前まで7年間も不倫関係にあったエマだ。3人とも30代後半といったところだろうか。この後彼等3人のうちの2人、つまりジェリーとエマか、エマとロバートか、ロバートとジェリーが、過去の出来事についてやり取りをすることになる。その話の内容から徐々に観客は、3人の関係を理解していく。そのように2人だけの場面でも、残りの一人が舞台から去ることはない。もちろん会話には参加しないが舞台のどこかには居る。観客がその存在を意識しないわけにはいかないようになっているのだ。
そんな演出を効果的にしているのが、5〜6メートルほどの直系のドーナッツ型の回り舞台装置だ。これは今年2019年のトニー賞受賞したミュージカル『Hadestown』でも活用されていて印象的だったが、あるいはブロードウェイで流行り始めているかも知れない。今回の作品でたとえば、人ひとりが立てる位の幅があるドーナッツ板の上を、 膝の上の娘を包む様に抱くロバートが、座ったままゆっくりと廻る。その内側にある動かない舞台 では、エマとジェリーが会話をしている。回りを巡るロバートと幼子は、エマの夫であり娘なのだが、彼女は夫だけでなく、娘も裏切っていると、観客にその存在を意識して欲しいと訴えているようだ。このような具合に会話内容によって回転台に乗る人、回る方向、速度が変わり、効果を発揮している。他方、小道具は余計な感傷や鑑賞が入り込まないように最小限に押さえられている。作品を通して使われるのは、3つの椅子と机とビール瓶などだけだ。
さて彼等3人は各々、冷めた愛情、犠牲のない友情、腐敗した倫理観を、恐らく時間をかけて身につけてきており、その結果として醸成される猜疑心、裏切り、欺瞞、そして孤独に苛まれているのだった。しかも誰も自分の心の内を明かすことはない。常に紳士的または淑女的で、極めて自然に内面の怒りや悲しみ、安心といった感情を隠している。そのごく普通に見える抑揚のない演技と、時々顕れる沈黙が、不倫という現実の非日常感を増強し、荒涼とした彼らの心を際立たせている。
それでふと思った。これまでの演出作品は、何で今回ほどの大成功を収めなかったのだろうか。ひょっとして役者が沈黙を恐れて演技過剰になっていたのではなかろうか。今回の演出では無関係な演技を削ぎ落とし、余計な感傷が入り込まないようにしている。同時に3人の俳優に沈黙を取り繕わずに演技させることで、各々の置かれた状況や心の内面が直感的に観客に伝わる様にしている。そこでは度々観客が考えさせられる沈黙が訪れる。ピンターが求めていたのはこの沈黙なのだ。彼の描きかった最重要テーマは、この沈黙がなければ観客には届かない。今回の作品ではその沈黙が最も秀でていたのではないかと思う。
ちなみにそのように度々出てくる沈黙だが、こちらではハロルド・ピンターの名にちなんでPinteresque(発音:ピンタレスク)と呼んでいる。知識人や舞台好きがたまに使う形容詞である。「隠れた意味を持っていて、突き刺さる様なぎこちない沈黙」を表現している。Pinteresqueを体感する目的で本作品を鑑賞するのも悪くないだろう。
主要キャストは3人とも英国出身。ブロードウェイは初めてである。ロバート役はトム・ヒドルストン。映画『アベンジャーズ』で有名になった俳優だが、元々シェイクスピアの戯曲『シンベリン』でローレンス・オリヴィエ賞演劇部門新人賞を受賞している舞台俳優だ。ジェリー役はネットフリックス版のドラマ『Marvel デアデビル』で好評だったチャーリー・コックス。エマ役はザウエ・アシュトン。テレビ『フレッシュ・ミート』に出演している。
演出のジェイミー・ロイドはまだ40にもならない。しかしローレンス・オリヴィエ賞でハロルド・ピンター劇場への貢献を認めた特別賞を受賞している。
この劇は、最初のシーンから3人の過去に遡り、話が拡がっていく。もし彼らのセリフから年数を聞き逃したり、ステージ上に映し出される年数を覚え損なうと、ストーリーが曖昧になり歯がゆい思いをしてしまう。そこで年数とあらすじを追記してみた。記憶力に自身のない方は、参考にしていただければ幸いである。また老婆心ながら副題をつけてみた。これは私の解釈が多分に含まれているので参考に留められたい。9/8/2019
公演期間:9/5-12/8/2019
<ネタバレ・あらすじ 1977→1968>
第1場 (1977年の春 イギリスのバーで ―再開、そして不倫発覚の完全な認知―)
バーで久々に再会したジェリーとエマ。彼等は9年前に不倫を始め2年前、その関係に終止符を打っていた。近況をぎこちなく伝え合う二人。ジェリーは「最近エマとケイシーの不倫の噂話を耳にした」と伝える。ケイシーは彼のクライアントの作家で、昔エマは彼の作品を嫌っていた。エマは噂の真偽を曖昧にし、出版社勤務の夫のロバートとは別れること、ロバートから長年にわたる複数の浮気を告白され、自分も過去のジェリーとの不貞関係を自白したと言う。親しい友人のロバートを、これまで上手に騙し通して来たと思っていたジェリーは、動揺する。
第2場(第一場の日の夜 ―事実の認識と納得―)
ジェリーは、ロバートを自宅に誘う。そしてエマから聞いていると思うが、と話を切り出す。するとロバートは、昔から二人の不倫を感じていたし、4年前にはエマから聞いて知っていたと告げる。その上ジェリーはそのことを認識しているとばかり思っていたと言う。ジェリーは不倫がばれていたことに驚き、しかもそれを知りながらも長い間、友達として付き合ってきたロバートに驚く。そして不倫を謝るどころか、何で言ってくれなかったんだと逆ギレする。挙げ句の果てにはロバートが自分の妻に密告するのではないか、と不安を募らせる。しかしロバートは「もはやどうでもいい」と答え、現在出版を手伝っている作家のケイシーとエマが、不倫関係にあるかも知れないと伝える。二人はケイシーの才能を酷評し合う。しかし彼の人気のおかげで毎年、相応の利益を得ていることを互いに認め合う。
第3場(1975年の冬 ロフトにて ―破局―)
ジェリーとエマの関係は冷えていた。エマは逢引のために借りたロフトの解約を切り出す。昔は仕事や家族のことで多忙だったのに、逢わずにはいられなかったと懐かしむ。やがてエマは、引き止めないジェリーを恨めしそうに眺めながら、鍵を渡して去って行く。
第4場(1974年 秋 エマの家で ―虚構と団欒―)
ケイシーと飲んだ帰りのジェリーが、ひとりで突然エマの家を訪問する。二人の関係を知るロバートと、覚られてはいないと信じ込んでいるジェリー。エマは2歳になった息子ネッドを寝かしつけ二人のところにやって来る。3人はケイシーの作品について語り合う。またジェリーは、エマの長女を両腕で高くかかげ「高い高い」と笑わせる。和やかで楽しく平和な時間が流れている。
第5場(1973年 夏 ベネチアのホテルにて -夫への発覚-)
夫婦二人で計画して来たイタリアで、トルチェッロ島へ出かけようとしていた二人。しかしロバートはホテルのクラークで、エマ宛ての分厚い封筒を受け取り、その筆跡から差出人がジェリーだと気付く。ロバートはエマに執拗に迫り、二人の関係を彼女の口から聞き出す。ロバートは焦り、ネッドがジェリーの子なのかと訊く。しかしエマは、ジェリーがアメリカに居た時期の妊娠なのでロバートの子だと、疑いを否定する。
第6場(1973年夏 ロフトにて -発覚の隠蔽-)
エマがベネチアからロフト用のテーブルクロスを買ってイギリスに戻って来る。久しぶりにジェリーに逢うのが嬉しそうだ。ジェリーは休暇の様子を訊く。しかしエマは不倫をロバートに告白した事実を話さない。ジェリーはその後、ロバートとのランチを計画する。
第7場(1973年夏 数日後のレストランにて -秘密と自尊-)
ジェリーはロバートと昼食をしている。ロバートは酔っている。明らかにエマの不倫が彼を酔わせている。だがその点については触れず、ジェリーが最近見つけた作家ケイシーを好きではないなどと話し出す。またケイシーの小説をエマは好きそうだし、ジェリーとエマには共通点がたくさんあるなどと指摘する。またイタリア旅行ではトルチェッロ島へひとりで行き、エマの居ない旅を楽しんだ上、ウィリアム・B・イェーツの本を読みふけって満喫したと伝える。ジェリーはエマが楽しみにしていたトルチェッロ島へ行かなかったことを知る。しかしその理由をロバートには訊かない。
第8場(1971年夏 -不倫の確認と深まり-)
ジェリーに妊娠を告白する前に、エマはジェリーの妻が二人のことを疑っていないか?と訊く。ジェリーはその疑いは全くないと答える。エマは更に、新しい人生を送りたいと思ったことがあるか訊く。しかし今更?と言って否定される。エマは妊娠を伝える。自分の子供なのかどうかを問われるが、違うと答える。
第9場(1968年冬 -不倫の始まり-)
ロバートの家で、すべての部屋を客にオープンにした大勢のパーティーが開かれている。ある部屋でジェリーとエマが二人きりになった時、ジェリーは好きでたまらないと告白し、キスをして相手を驚かす。しばらくしてロバートが部屋に入って来ると、ジェリーはエマの可愛らしさを褒め讃える。続けてロバートに「君は僕が最も古くから付き合ってきた男だ」とか「ロバートが自分の結婚式で仲人役も務めてくれた。」などと、友情を再確認する様な話をする。
第1場 | 1977年 | 0年前 | 再開、そして不倫発覚の完全な認知 |
第2場 | 同年 | 0年前のその後 | 事実の認識と納得 |
第3場 | 1975年 | 2年前 | 不倫の破局 |
第4場 | 1974年 | 3年前 | 家庭での虚構と団欒 |
第5場 | 1973年 | 4年前 | 夫への不倫発覚 |
第6場 | 同年 | 4年前のその後 | 発覚の隠蔽と不倫の継続 |
第7場 | 同年 | 4年前のその後の後 | 発覚事実の秘匿と自尊 |
第8場 | 1971年 | 6年前 | 不倫関係の確認 |
第9場 | 1968年 | 9年前 | 不倫の始まり |
Bernard B Jacobs Theatre
242 West 45th Street
公演時間:90分(休憩なし)