アプロプリエイト
あらすじ&コメント
日本人の私たちは、毎夏、当たり前に蝉の声を聴き、無意識のうちに季節を感じてきた。しかし米国西部には蝉はいないし、また東部でもその声を聞ける場所と年は、限られている。数年前に日本の昆虫学者がその理由を発表して話題となった素数ゼミが、地域ごとに混在せずに居る米国東部では、長い間鳴かない年が続いたりもする。当然米国にはセミに親しみを感じていない人が多い。そしてニューヨーク・シティーではほとんど蝉の声は、聴けない。
しかしこの度、劇場に入場して席で待っていると、いつもの様に照明が落ち、そこに何やら虫の羽音が聴こえて来た。それは徐々に大きくなってきて、やがて観衆はその慣れない蝉の鳴き声に包まれ、吞み込まれる。アメリカ人にとっては機械音にも聞こえないとも言えないその音は、かなりの間鳴り続け、圧迫感もある。何が始まるのかと五感を研ぎ澄ませていると、舞台にあたる月明かりに照らされて、朽ちつつある屋敷の窓が、なんとか両目で捉えられるようになる。するとどうだろう。その窓の外に、忍び込もうとしている怪しい人影が二つ、見え隠れするではないか。サスペンスな始まりに観客の心ははしっかり捕えられる。しかし、その人影の一人が女性であることがわかり、この男女のコミカルな会話で劇場は笑いに包まれ、和んだ空気が流れる。男の方が「ここで過ごした最後の夏も、この13年に一回地上に出てくる蝉が鳴いていた」と話す。二人の人影は何とか窓を乗り越えて屋敷の中に入っていく。そこには本や物が所狭しと散らかっているようだ。ぼんやりとそれらが見えてきて、部屋の中央のソファーに観客の視点は定まっていく。とそこから突然ガバッと起き上がる男の影に観客は勿論、当の二人も叫び声を上げて跳びあがる。
舞台はアーカンソー州2011年。黒人奴隷の墓地の近くに建っている古い屋敷に、亡くなった当主ラファイエットの3人の子供とその家族や婚約者ら8人が集まって来ている。窓から入り込もうとしていた二人は、鍵を持たない三男のフランツとその婚約者でヒッピーの様な女性だ。またソファーから突然起き上がったのは十代後半とおぼしい長身のリース(グレアム・キャンベル)で、長女トニの一人息子だ。この長女トニからは何かと言えば厳しい皮肉が口を突いて出るのだが、彼女は早く亡くなった母親代わりに弟二人の面倒を見て来たし、彼らが家を離れて音信不通になってからは、父親の面倒を看続けたのだ。そしてなにより亡き父を尊敬していた。いっぽう上の弟ボー(コリー・ストール)は、合理的な性格が幸いしてビジネスに成功。ニューヨークで生活をしていたが、このところ事業が芳しくない。この機会に米国南部を見せたいと思い立ち、ユダヤ系の妻と子供たちを連れてきている。末っ子のフランツは、小さい頃から家に馴染めず、アル中だし、未成年の女子と付き合うという犯罪歴もある。しかし今回は自分がもう、昔の自分ではないことを兄弟に明かにしたいと考えている。
6ヶ月前に死んだ父親の資産と不動産の屋敷を処理するために、皆、自分達が育った家に戻ってきた。しかし久しぶりに顔を合わす三兄弟は、なんとなくギクシャクとしている。溜め込み放題、散らかし放題の屋敷を皆で整理する中、次男ボーの13歳の早熟な女の子が屋根裏から怪しい写真アルバムを見つけてきた。その中身を見て全員が唖然とする。かつては最高裁判所判事の候補者でもあった父親が、本当はどのような人間だったのかと、3人の兄弟はそれぞれの記憶を辿りながら話を交わし始める。だがどの会話もすぐに言い争いとなってしまう。何故だろうか。父親の遺物の発見を契機に、兄弟の過去の奥深いところに封印されていたドロドロとした恨みや妬みが、解き放たれているのであった。それはまるで十数年間地中でうごめいていた蝉達が、一斉に地表に出現して鳴き始めるように。
トニを演ずるサラ・ポールソンは、プライムタイム・エミー賞、ゴールデン・グローブ賞など数々の賞を受賞し、2017年、タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」にも選ばれている。平静ながらも憎しみに満ちた皮肉を兄弟に振りまくのだが、何故か観る者の共感や同情を呼び起こすその演技は、今年のトニー賞の最優秀主演女優賞の対象になるだろう。
照明に多くの受賞歴のあるジェーン・コックスと舞台装置のDots(ドッツ)に、音響の二人組が加わって、最初のシーンから2時間30分、先ほど触れたように軽妙な会話に笑っている時も、心のどこかではドキドキ感から抜け出せないのは、この照明と舞台装置、音響の功もあまり有るだろう。Dotsは西川君枝さんが、ニューヨーク大学の院生時代に知り合った友人達と設立したデザイン会社で、南アフリカ人とコロンビア人の3人で営まれている。
いくつもの驚きが作品の随なので、これ以上の詳細は明さない。最初から不気味な雰囲気が漂い続け、その屋敷自体が奴隷墓地の霊に取り憑かれている様な気もしてくる。今年期待されて開幕した戯曲『グレイ・ガーデン』では、スリラー映画の恐怖を舞台で表現する限界を感じざるを得なかったが、今回の『アプロプリエイト』では、なるほど、こういうアプローチもあったんだ、と再認識させてもらった。
最後に蝉についてもう少し書くと、米国ではセミが鳴いている地域にわざわざ出かけて13年ゼミや17年ゼミの声を聴くツアーが企画されるほどだ。今年2024年の春は、素数ゼミの13年周期群と17年周期群が重なって発生するらしい。13と17の最小公倍数となるから、なんと221年ぶりの現象だ。彼らが隣あって生息しているイリノイとアイオワ州のある地域では、どちらの声もいっぺんに聴くことが出来る。さぞかし騒がしいに違いない。ちなみにニューヨークのセントラル・パークにも17年ゼミが生殖しており、17年に1回しか蝉は見られない。(1/3/2024)
——————-
参考までに:舞台に最初降りている緞帳には、タイトルの「Appropriate」と言うタイトルに使われている言葉の辞書上の意味が映像によって以下の様に映し出されている。
ap • pro • pri • ate
形容詞
1. 適切な、
2. ふさわしい、充当する
動詞
1. 充当させる
2. 横領する
3. 横取りする
4. 盗む
——————-
英語一口メモ✍️
英語には「脚本家」という意味のPlaywright(プレイライト)という言葉があります。このライトは、間違ってWrite(「書く」ライト)だと思ってしまいがちですが、実はスペルの違うwrightという語尾に使われる言葉で「〜を作る人」という意味です。例を挙げると、Shipwright(船を作る人), wheelwright(車輪を作る人)などがありますが、つまりPlaywright は「劇を作る人」です。
The Hayes Theater
240 West 44th Street
Between 7th and 8th Ave.
公演時間:2時30分(休憩1回)
公演期間:2023年12月18日~
(3/3までヘイズ劇場。3/25からベラスコ劇場)。