疑惑:聖書における道徳的訓話
あらすじ&コメント
シスター・アロイシウス校長(エイミー・ライアン)は、学生や同僚から厳格さで恐れられている。彼女はこの教区に近年赴任した。フリン神父(リーブ・シュライバー)が気に入らない。爪が伸びているのに気にもせず、インクペンの代わりにボールペンを使う。またクリスマスの合唱に神とは無関係なクリスマス・ソングを入れようとする。そのうえ生徒に、バスケットのコーチをしたり、アイスクリームを奢ったりして、生徒や信者から人気を得ている。一方校長は、あらゆることにおける規律の厳守に気を配り、生徒とは、距離を保って監督すること(こっちの言葉が自然だね)が大切だと、心の底から信じている。(確かにここは一度切った方がいいわ)彼女とフリン神父は、まるで水と油だ。
ある時修道女のジェームズが校長に話した。最近転校してきた学校に一人だけの黒人生徒ドナルドのことだ。彼女は校長に、どんな些細な事でも校長の私に話しなさい、と言われていたので報告しているのだった。ドナルドが、まだ12歳なのにフリン神父の部屋から戻ってきた時、吐く息がお酒の匂いがしていたうえ怯えていたというのだ。校長はフリン神父の性的暴行を確信し、早速彼を呼び出す。そして顛末を質す。しかし神父は、動揺もせず落ち着いて、いつものようにこう話すのだった。ダニエルは聖餐式用のワインを飲んでしまった。しかしそうなると彼は、先頃任命されたミサの祭壇奉仕者の役から外れざるを得ず、それでは転校してきたばかりのダニエルが可愛そうだ。そこで部屋に一緒に戻り、二度と同じ過ちは繰り返さない様に誓わせた上で、今回だけは見逃すことにした、と。話は通る。だが校長は納得していなかった。しかしカトリックのおいては神父に対する修道女の立場は弱い。彼女の立場で教会組織の上層部に訴えることなど不可能だ。そこで彼女は信念に基づき、自分の地位を賭けてフリン神父の学校からの締め出しを決意するのだった。
この舞台が最初にブロードウェイで発表された2004年当時は、ローマ法王が中心の世界にただ一つの巨大なカトリック教会組織が、神父による性的行為で揺らいでいた時だった。2002年の米国のボストン・グローブ紙のスクープを皮切りに、世界各地で報道と訴訟が相次ぎ、隠ぺい工作が暴露され始めていた。だが一方それらの報道や訴訟には、反カトリック団体や反教会主義を標榜する個人による捏造が含まれていることもあり、当事者の弁明なしに推定無罪のはずが真実として扱われてしまった事例もあった、との指摘もある。また教会とは関係ないが、暴行されたと言う女性の訴えで人生を台無しにされた男性の無罪が判明した事件も、あれからいくつもあったのも事実である。
フリン神父を演じるリーブ・シュライバーの演技は見事で、その心痛が直接観客に伝わり、同情を抱かずにはいられない。しかし冷静に考えれば、どちらにも証拠はなく、だれにも真実は分からない。
何か方法がないかと考えた校長は、ダニエルのお母さんに話を聞くことにする。ところが学校に来て校長と面談した母親は、フリン神父についての疑惑を聞き、更に校長がその疑惑の証拠になるものを何も持っていないことを知る。そして当然の事だが、何故自分は校長室に呼び出されたのかと校長に対する疑惑を抱くようになる。そして彼女は、校長に頼むのだった。
この夏、息子ドナルドがここを卒業できれば、大学に行けることになる。だからどうか彼をこの件には引きずり込まないでほしい。ドナルドは普通の男子とは違う。彼はゲイっぽく、どこの学校に行っても他の生徒にいじめられ、転校せざるを得なかったのは事実だ。ドナルドの父親もそんな息子に失望し、しょっちゅう彼を殴る。しかしフリン神父だけはそんな息子に優しく接してくれているし、ドナルドも神父を慕っている。やっとこの学校を見つけたのだから、何とかこのままドナルドをそっとしておいて欲しい、と哀願する。そして尚もこのように願う。これは校長と神父との間の争いごとのように見える。だとすれば、両者で内々に解決を図って欲しい。もし息子がゲイかもしれないなどという噂が誠として世間に出たら、彼はこの高校も卒業できなくなってしまう。あなたは私の息子を守る振りして、神父と戦っている。でも私は息子をどんなことがあっても守るつもりだ。正しいことをしようとする余裕のある恵まれた人々は、立場の弱い人たちの人生や生活の厳しさを知らない。恵まれて余裕があるから正しいことする気になる人は、弱い立場の人たちの惨めな人生や厳しい生活を知らない。正論や理想だけを振りかざす事が、社会から守られていない人々をどれほど苦しめることがあるか分かっていない、と言って校長室を出ていく。その気持ちがたいしてないのに、慈善を高らかに口する人々への強烈な批判が込められたこのシーンは、女優クインシイ・タイラー・バーンスティンによって見事に演じられている。ちなみに1960年代は、今とは随分違い、女の子みたいな男子は世の中から蔑まれていた時代だった。
ジョン・パトリック・シャンリー(劇作家 73歳)はNYCブロンクス出身。映画『月の輝く夜に』でアカデミー賞脚本賞を受賞している彼だが、舞台作品も全米だけでなく世界中で広く上演されている。今年は彼のもう一つの最新作『ブルックリン・ランドリー』がオフ・ブロードウェイで上演開始となっていて、こちらも好評を得ている。演出のベテラン、スコット・エリス は、『トッツィー』『キス・ミー、ケイト』『シー・ラヴズ・ミー』を始めとする多くの作品で、トニー賞にノミネートされている。舞台デザイナーのデイビッド・ロックウェルも、『キンキーブーツ』や『ヘアースプレー』などいくつもの作品でトニー賞にノミネートされているベテランだ。本作品では回り舞台による視覚効果が随所に見られ、作品に花を添えている。
校長を演ずるエイミー・ライアン(55歳)は、『欲望という名の電車』でトニー賞にノミネートされている。実は、元々この役に選ばれていたタイン・デイリーが、オープン直前の2月に体調を崩して入院した為、この役を断念した。そこで急遽ライアンが呼ばれたのだった。リハーサルもを2、3回しただけでの本番となった。念の為にだろう。中二階には彼女のセリフがモニターで出されていたらしい。しかし流石にエイミー・ライアン。それを感じさせない演技だった。彼女はフリン神父役のリーブとほぼ同じ年齢なので、校長が20歳ほど年上という設定の台本から考えると若くて、他紙の劇評には貫禄や人生の重みが不足している、と言うものもあった。しかし痩せて頑なな雰囲気があるエイミー・ライアンはこの役に合っており、ふくよかで貫禄のあるタインや、2004年に本作を演じた太めのチェリー・ジョーンズよりは、もっともらしいかも知れない。華奢なシスター・アロイシウスも、この作品に合わなはくない。
リーブ・シュライバーの泣くシーンが一番印象に残ったのだが、次の日に観た友人曰く、彼は全く泣かなかったと言う。非常にインパクトの強いシーンだったので、そこまで時によって演技を変えてくるのか、と驚いた。これぞライブ。生の舞台は面白いと今更ながらつくづく思う。ちなみに映画『DOUBT』には子供や生徒が出てくるが、本作品には一人も出てこない。作品の本質的部分を想像を掻き立てることによって構成している作品となっている。
本作品は、偏見、倫理、真実、正義について考えるヒントを与えてくれると同時に、性、社会の階級問題、男女の地位、先入観など多くの課題を問いかけくる。観劇の帰途についてもそれは止まないだろう。
<ストーリー>
ダニエルの母親を呼び出したことを知った神父が、理由を質しに校長室に入ってくる。逆にシスター・アロイシウス校長は、神父がこの5年間で3回も異動している訳を問いただす。どこの学校も口を割らないが、私はそれらの教会の修道女と通じているのだから、今のうちに白状した方がいいと迫る。その上、教会から追放されてもいい覚悟で、あなたを上層部に訴えるつもりだと伝える。すると彼は、たじろいだ様子で、たどたどしい言葉遣いながらもはっきりとした言葉で「理由はある。でもそれが何かは言えない」と言う。ドナルドとの関係を否定しながらも、何か秘密を持っている様だ。校長は部屋を出て行く。部屋に残った神父は込み上げる涙を止められない。しかしすぐに涙を拭い、司教に電話を入れる。周り舞台が回転を始める。こちらに背を向け、窓の外を見つめながら司教と話をしているフリン神父だったが、やがて彼の顔が、今度は庭から見れるようになる。その姿、最初は陽を受けているが、やがて影に沈んでいき、遂には舞台から消える。
すると舞台は教会の裏庭になっている。裏庭の陽だまりの中、ベンチに座っているのは校長だ。ジェームズ修道女が彼女に気がつき、隣にくる。どうやらあれから時間が経った様だ。彼らはフリン神父が異動となり、次の学校で更に高い地位を得た話をする。つまり栄転だ。アロイシウス校長はジェームズ修道女に、自分は神父にうそをついてしまった。神父が過去に居た教区の修道女に話もしていない。あれは彼に白状させるための嘘だった。そして自分にも疑惑があると伝えると呟き、泣き崩れるのだった。その涙が、神父に対して起こした行動の動悸が正しかったのかを自問してなのか、それとも神父を引き摺り下ろせなかった教会への疑問と悔し涙なのだろうか。或いは、今回の事で神の御心まで疑うようになったと泣いているのかもしれない。(3/11/2024)
The Todd Haimes Theatre
227 West 42nd Street
公演時間:95分(休憩なし)
公演期間:2024年3月7日〜4月21日