村上春樹原作「海辺のカフカ」を2008年、米国人フランク・ギャラティが舞台化した脚本をもとに、蜷川幸雄が演出したもの。リンカーンセンターのサマーフェスティバルの催しの一つとして、David H. Koch 劇場で7/23−7/26まで、4日間上演された。
アメリカには村上春樹のファンは多く、この原作の本もベストセラーだったので、この公演はフェスティバルの目玉となっていた。広報担当者のアメリカ人も、役者のインタビューの時、話しかけると「ハルキの小説、大好き! こういう機会がもてて、とても嬉しい」と言っていた。観劇中も、この作品への敬意の念を、周りに座るアメリカ人から強く感じられた。
幕が上がるとまずその舞台セットが目に飛び込む。高さや幅の違う透明な素材でできた立方体の中に、場面設定用のそれぞれのセット、森、模型のバス、電車の駅、寝室や図書館の机や本棚などが組み込まれ、その立方体の上の四方の蛍光灯が中を照らし、美しく不思議な空間を生み出していた。この中や外で俳優が演じるのだが、立方体の背景の透明な部分に、その前で演じている俳優などの背中が逆目線で映るのも面白い。
その大きな透明のケースを、黒子が複雑なパターンを描いて舞台上を滑らしながら、場面転換が行なわれる。 これだけ敏速に、これだけの量のセットを、衝突させずに床を滑らして行くのは、大陸気質のアメリカ人にはできないだろうと思ったら、やはり黒子は皆日本人であった。アメリカのユニオンは強く、コンセントを壁から抜く一つにしても、勝手にすると叱られたり罰金を払わされたりするので、舞台セットを動かす様なユニオンの舞台係の仕事を、自分たちの日本からの黒子ができるようにどうやって合意に至ったのだろう。まあ、アメリカ人の方も、あの舞台セットの動きをみて「参った!無理。」というところだったのかも知れない。最後に並んでお辞儀する時に、黒子達が前に出て来て一緒にお辞儀をしていたから、「彼らは俳優とも言える」ということで、話しをつけたのかもしれない。
しかし、これでも短くしたというこの舞台は、とにかく長い。小説の順序に忠実であるあまり、少しの会話の場面も多く、すぐ次の場面に移ってしまうので、小説ではこの方法が効果的なのだと推測するが、舞台でこのブチッ、ブチッ、という途切れが3時間半程続くと、最後には「この作品の意味?どうでもいいや」的な気分になる。これでも、かなり短くした、と聴いた。編集は大変だが、あと20分頑張って短くすれば、この魔法が保て、記憶に長く残る作品になると思う。
と言っても、私は実はこの小説を読んだことがないので、この作品を新鮮な目で観れ、長くてもかなりエンジョイした。 猫と話しができる人間の 「ナカタさん」と話していた猫が急に立ち上がって、人間の様に腕組んで、近くに停まっていたBMWの話しをした時は、笑ってしまう。 宮沢りえが小さく丸くなって横たわる小さい透明の立方体が黒子に押されて出てきて、その中で「海辺のカフカ」の詩を歌うのは美しい。奇怪な役柄を、それぞれ俳優達は皆うまく演じている。日本人らしい天然ボケを使ったコミカルな場面は、アメリカにいると更に新鮮で、そこに漂う緊張感を緩ませて、楽しませてくれる。
グロい部分もあったが、たぶん小説で読んだら、もっと気味悪かったろうと思うので、舞台を通してこの作品を知ることができて良かった。舞台と小説は違う作品だと考えるべきだろうから、小説としての作品は知り得てない、ということになるが、村上春樹の作品は、私には暴力的過ぎて、後で消したいと思う様なイメージが脳裏についてしまうので、かなり選んで読んでいる。
ところで、次回日本の芝居をニューヨークに持ってくる時、日本の芝居はこんな大きな舞台で上演されるべきではない様に思う。David Kotch Theaterは、約2600席。普段はバレエやクラシックのコンサートが行われる劇場である。世界的な声量を持つわけでもない日本人の声は、反響も手伝って、英語の字幕がなかったら、私でもわからない部分も多々あった。更に、この英語の字幕が舞台の上についていて、目線が舞台から離れるので、アメリカ人はアメリカ人で大変だっただろう。この作品がこの劇場でニューヨーカーに紹介されてしまったのは、非常に残念だった。
この後、9月に埼玉県で公演、それから10月にシンガポール、そして、11月にはソウルでの公演が待っている。