桂サンシャインの落語
落語は江戸時代から約400年続く芸能であり、小道具も最小限に抑えられ、演者は基本的に座布団の上に座ったまま語る。飾りのない分、まさに語りの技術が物を言う世界だ。声の抑揚、間の取り方、そして無駄を削ぎ落とした身体表現によって、舞台空間は十分に満たされていく。
今回舞台に現れたサンシャインは、伝統的な衣装から一歩踏み出した、光沢があり華やかな着物をまとっていた。その装いは、日本人の落語家に比べると、背丈や骨格、髪の色などすべてが目立つ彼の存在感によく似合った色合いなのだろう。
本公演の大きな特徴のひとつは、サンシャインが4〜5名の弟子たちと共に舞台に立っている点だろう。落語は即興性よりも、師から弟子へと受け継がれてきた「型」と規則を重んじる芸でもある。今回の弟子らはいずれも真打ではないが、前座として持ち時間を与えられ、高座に上がって場を踏むことを許されていた。落語がいかに「系譜」によって継承される芸能であるかを、実演によって示してくれる構成だ。弟子たちはそれぞれ語り口の違いを見せ、修行中でありながらも、その一生懸命さは十分に伝わってくる。
中で、男性の弟子が演じたのが「味噌豆」だ。店主と小僧の関係を描いた古典的な滑稽噺で、まずは物語の基本構造とリズムが素直に語られた。店主は威張ってプライドもあり、小僧から食いしん坊だと思われたくないが、味噌豆を摘まみ食いしたい。小僧は店主を怖がっているので怒られたくないのだが、やはり味噌豆を摘みたい。お互いに隠れて食べるしかないのだが、、、という話だ。
そしてこの演目が、その晩のハイライトへと発展していった。続いて高座に上がったサンシャインが、「味噌豆」を再演したのだ。そしてさらに、今度は店主役をイタリア語話者、小僧役を中国語話者として大胆に置き換えてみせた。サンシャインはどちらの言語も達者らしい。私も含めて、客席の大半はイタリア語も中国語も理解できない。それにもかかわらず、この落語は爆笑を生んだ。
声のトーン、語りの速度、姿勢や身振りの誇張によって人物像が明確になり、観客にとっては、言葉一つ一つの音や響きそのものが可笑しい。昔ながらの厳密な修練と系譜に裏打ちされながらも、落語という芸能の可能性を更新したとも言えるだろう。彼は物語を書き換えることではなく、既存の噺をどう「住み直すか」によって、この舞台を作り上げていった。今回、普通の落語家では簡単に提供できない、ユニークな笑いに出会えたことは素直に嬉しかった。
最後に師弟制度についてだが、日本の伝統的な落語における修行は、舞台上の稽古にとどまらない。弟子は師匠の日常生活を支え、買い物、掃除、洗濯などの雑務を通じて、常に芸のそばに身を置くことを求められる。そこでは教えられるだけでなく、真似と観察によって技と心構えを吸収することが重視される。また、寄席や公演では、太鼓や三味線といった囃子に関わる裏方の役割も弟子が担う。今回、音響のバランスはあまり良くなかったが、太鼓や三味線は弟子たちによる生演奏だったらしい。弟子たちの落語修行の幅広い責務を象徴していると言える。
比べると面白いのは、現代アメリカのアートシーンだろう。そこでは「真似」や「観察」ではなく、「個性」や「唯一性」が技術や構造よりも先行し、結果として造形的な説得力を失ってしまう作品に出会うことも少なくない。日本において型に縛られすぎた凡庸さが生まれるのと同様に、アメリカでは「違うこと」自体が目的化してしまう危うさがあるのは興味深い。(12/13/2025)
New World Stages
340 West 50th Street,
上演時間:90分




