photo by Tamara Beckwith/NYPOST
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Queen of the Night クイーン・オブ・ザ・ナイト
どうも、このプロデューサーは、お客を待たせて希少価値感を持たせよう、という作戦がある様に思う。『クイーン・オブ・ザ・ナイト』も外に観客の列が並ぶが、実際にはそこまで待たせる必要は全くないのである。列を長くして、それを目にする人々や、通りがかりの車への“無料の宣伝”の狙いがあるのだろうが、中に入っても上演会場やバーは混んではいない。限定品感を出して、手に入れたい欲望をそそるのであろう。しかし、「Dress to impress(印象に残る様な服装で来てください)」と切符で提案され、頑張ってミニに凄い高いヒールを履いて、ずっと外で立って待つ女性達は気の毒だった。
ところが、一番高い切符を買えば、外の列で待つ事はないし、明らかにスタッフからの扱われ方も違う。その一方で、安い方の切符の客達は、そこら辺は気にせず頑張って待つ。さすがにアメリカ人はせっかちじゃない。そして、アメリカ人の平等、というのは“機会の平等”である。自分の腕と才能でお金を稼ぎ、その能力のためにいい目を見るのは当然と考えている。だから、それだけ稼げない、または稼いでいるがお金をかけない、というのは自分の選択に帰するところと捉えて我慢するのだろう。入り口で、首にかける小さい鍵のついたリボンを渡されるが、見ていると、どうもその客種によってリボンの色が違う。切符の値段、メディア、VIPなどが一目でわかる様になっている様だ。良い意味でも悪い意味でも、ここまで区別をするのは、日本人の感覚とはちょっと違う。主催者側によると、切符の値段で、観客参加型に加われるかどうか、という区別はないらしい。だとすると、何が目的だったのだろう? どちらにしても、せっかちでプライドが高い日本人は、外で待つのも、こうやって区別されるのも、アメリカ人と同じ様には受け止められないだろう。
話しがそれてしまったが、そうやって会場に入ると、お尻を右に左に振りながら、ゆっくり歩く美しい女性に奥に案内される。その歩き方も勿論、演出されたものである。しかし『スリープ・ノー・モア』の様に役者がそういう演技をしているのと違って、多少「もったいぶり感」がある。必要もないのに、客に外で待たせることに通じるものを感じた。
最後のドアをやっと通り抜けると、そこには衣装の素晴らしい女王がステージに立っていた。照明もさることながら、衣装も音響もカッコいいし素晴らしい。そこで番号が書かれた紙を渡されるが、自分の番号がアナウンスされるまで「会場を歩いて楽しんでください」と言われる。1951年から60年以上使われることがなかったそのダンスホールは、1940年代のアメリカの雰囲気を保っている。好きなだけオーダーできるバーに行って、その会場内や天井からぶら下がって演技をするアクロバットを観て楽しんだ。やっと自分の番号がアナウンスされると、昔は舞台裏だったのであろう場所に連れていかれる。そこにある部屋では、いくつかのアクトが披露されている。例えば、透き通ったベールかぶった裸の女性が、バスタブに座って1940年代の剃刀で自分のふくらはぎを剃っていたりする。しかし、『スリープ・ノー・モア』の様に、暗闇の中で観客が全員お面を被っていた時の様な魔法にはかけられなかった。裸の女性をじっと見つめる傍に立っている男性は、2015年に生きる同じニューヨーカーなのだから、多少冷める。
その内やっと自分のテーブルに通され、ステージでは次々と違うアクロバットなどのアクトが披露され始める。 主食は7人位座っている自分のテーブルに大皿にのって一つ置かれる。種類は子羊やサーモンウィリントン、鶏肉、ロブスターなどがあるが、任意で一つテーブルに置かれるので、他のものを食べたい場合は、それをある程度食べた後、他のテーブルに自分たちの大皿を持って行ってバーターする。そして、パフォーマンスをやっている美しい若者が時々テーブルに来て、誰かを選び、観客参加型のステージが繰り広げられる。時には、違う部屋に連れて行かれて、靴を脱がされ、毛皮に横たわって、柔らかい羽根で頬をなでられたりもするらしい。食事が終わる頃、工事現場にある様な大きなカートをウェイターが押してくる。そこに、使用済みの金属製の皿やフォークなどを放り込む。金属の“カシャーン”という音が会場に響き渡る。デザートは、それ担当の美男のウェイターから、小さい小さい一切れを口に入れてもらう。
全体としては、 多少心理的に消化不良を起した。雰囲気と音響と衣装は素晴らしいが、パフォーマンスのレベルはニューヨーカーには物足りないだろう。どうやって変わったことしようか、という安易なアプローチも感じられた。美味しい食事は、バーターせずに、デザートは自分のフォークで、そして、最後にお皿を投げることもなく、シンプルに食べたい。『スリープ・ノー・モア』は未だに続いているが、あれは単に、珍しくしよう、ではなく、ああやって描いたマクベスの面白さがあり、最初から最後まで怪奇な雰囲気を楽しませてくれた。単に“限定品”だけでは物は売れ続けられない。もったいぶるなら、それだけのものを見せて欲しいと思った。