The Best We Could〜 a family tragedy〜 訳:精一杯やった〜ある家族の惨事〜

The Best We Could〜 a family tragedy〜
訳:精一杯やった〜ある家族の惨事〜

オフ・ブロードウェイ 演劇
The Best We Could〜 a family tragedy〜
訳:精一杯やった〜ある家族の惨事〜
The Best We Could〜 a family tragedy〜 訳:精一杯やった〜ある家族の惨事〜

新人脚本家エミリー・フェルドマンの戯曲。米国における熟年層、コンプライアンス、大人になりきれない若者、家庭内の世代の壁といった諸問題に正面から取り組んでいる。観客はサブタイトル「〜ある家族の惨事〜」を見て心の準備をしていた筈だが、始まってみるとコメディータッチの作風によって終始笑いに引き込まれ、楽しく時を過ごしていたようだ。しかし最終盤で身につまされる結末に接し、種々な思いに襲われたのだろう。閉演後のロビーは気持ちを明かし合う観客でいっぱいだった。

あらすじ&コメント

ステージには居間によくありそうな絨毯が敷かれただけの殺風景な空間が広がっていて、そこの周りに置かれた椅子に、キャストの4人が座っている。袖からナレーターとおぼしきマップスと呼ばれる女性が出てきて、こちらに向かって話し始める。「今日は良く来てくださいました。観劇中には携帯をオフにして下さい」など伝えた後、バックステージのクルーに「照明を落として」とか、キャストの役柄を紹介しながら、「あなたはすぐには出ないから、一旦、舞台裏に行っていて大丈夫」などと指示を出している。彼女は、観客と舞台の中間に立つ役割を担っているようだ。その後はナレーターとしてストーリーを進めるだけではなく、また3人の脇役も演じることとなる。

最初に椅子に座っていた4人は、父ルー、妻のペグ、一人娘のエラ、親しい元同僚のマークで、彼らが中心となって舞台は展開していく。

カルフォルニアにあるエラのアパート。母親ペグからの電話でストーリーは始まる。ペグはエラに「座って聞いて」と何度も言う。その深刻な様子にエラは誰かが死んだのかとドキッとするのだが、実はペットが死んだという。そこで少しホッとし、あきれたような口調になる。彼らは普通の家族なのだ。エラは何不自由なく育ったようだ。だが既に人生を諦めかけている36歳で、ボーイフレンドもおらず結婚する様子もない。仕事もヨガの先生やモダンダンスの先生など趣味の延長の様なことばかりをしている。しかしイデオロギーや倫理観だけは強いようだ。先頃彼女は子供用の小説も書いたが、題名が「夢は破れるもの」だった所為か、どこの出版社からもオファーはない。

父親のルーはお喋りが好きな好感の持てる55歳ほどの男性だ。彼が一人娘エラの大ファンであることは間違いなく、エラのことを誰彼かまわず誇らしげに話している。最近長年働いていた化学研究センターの職を解雇され、今は仕事を探しているのだがなかなか見つからない。そこに可愛がっていた愛犬が死に、いよいよ元気をなくしている。

妻のペグは以前イベント・コーディネーターをしていたが、今は引退している。どうも叱咤激励が最高の愛情表現だと思っているようだ。単に大袈裟なのかも知れないが、ルーに「もう稼ぎがないのだから小さな家に引っ越さなきゃ」などと辛い話を平然と言ったりする。しかしルーは、そんな妻の小言を静かに受け止めて、彼女への愛情を絶やさない。娘のエラは、母親とは良く言い争うが優しい性格の父親には気を使っている。

ペグは落ち込んでいる夫を元気づけようと、エラの書いた小説が、ニューヨークで刊行されることになったと嘘をつく。そして、その出版者に車で連れて行ってあげてと提案する。ついでに途中の保健所で保護犬を貰うのがいいとも助言する。彼女はエラがデイト相手もおらず仕事もないのだから、互いの気晴らしにちょうど良いと思ったようだ。後からそれを聴いたエラは怒るが、遂に才能が花開いたと喜んでいる父親に、そんなオファーはない、などと言う気にはなれなかった。そして二人はニューヨークへ向かう。

ルーは運転しながら、それまでの経験から得た人生の教訓を娘に伝えようとするが、娘は適当に聞き流している。途中のコロラドにはルーがかつて世話をして、同じ仕事につけさせた友人のマークが住んでいる。二人はそこに寄る。マークは昔の恩返しにとルーを自分の会社に推薦していたので、ルーはマークにあって結果を聞くのを楽しみにしていた。しかしマークは、その職が若い人に取られてしまったと伝える。

一方カルフォルニアに残ったペグは、ジムでダンストレーニングをしていたルーの元会社の同僚を見かけ、30歳後半と思われる彼女にルーが解雇になった理由を問いただす。だが彼女は、ダンスのクラスだけが私の楽しみなのだから邪魔しないで、と言って取り合わない。彼女はマップスが演じる役の一人で、神経質そうでユーモアのセンスはゼロ。少しのストレスでポキッと折れそうな感じだ。

エラは旅から帰った後、一人でコロラドのマークのところへ行く。そして彼になぜ父親の為に仕事を取れなかったのかと責める。そしてとうとう、ルーがセクシュアル・ハラスメントによる解雇だったから、どこにも雇って貰えないのだと知ってしまう。ショックを受けたエラは、怒れる気持ちを抱えて両親の家を訪れる。母親のいる前でその気持ちを父親にぶつけるエラ。真実を知ったペグも、更に興奮して彼を責め苛む。父親はなんとか言葉を見つけようとするのだが、あまりの剣幕に言い返すことなどできない。暫くたってマークは、静かな声でエラに「犬の散歩に行くけど、一緒に行かないか」と誘う。しかし彼女は、目を合せないようにしながら強く断るのだった。出ていく夫の姿を見ながら、ペグは椅子に座りこんで呟く。「私たちは精一杯やったわ」と。

ルーが向かった先は、かつての仕事の同僚が生甲斐のように打ち込んで踊っているダンス・ジムだった。そう、少し前にペグがジムで見かけて話をしていた彼女だ。観客はそこでのルーと彼女との会話から解雇理由を知ることになる。ある仕事の打ち上げパーティーでルーは、酔った勢いで彼女のお尻を二度も摘んでしまう。そんなことは彼も彼女も、初めてのことだった。彼女は固くなりながらも笑って対応したのだった。しかし心中は穏やかではなかった。悪いことに次の日、会議でルーのリサーチレポートに彼女が意見すると、ルーは興奮して大声を出してしまった。なぜならそのレポートは彼が情熱を注いで調査してきたプロジェクトの成果だったからだ。しかし彼女はそれが昨晩のハラスメントの続きだと感じてしまう。そして思い悩んだ末相談した友人に「自分を守るために人事に報告するべきよ。これを許したら次に何が起こるかわからない。自分を強くするチャンスなのよ。」と勧められて会社に訴える。ルーは解雇された。ズンバのクラスが私の生きがいなのと言う彼女に、彼は何度も何度も掌を合せて謝る。そして会社への訴追の取り下げを頼む。だが彼女は、その願いを受け入れなかった。深読みをすれば、ルーが解雇されたのは恐らく高齢だったことも関係している。米国社会では高齢であることが解雇理由にはならないので、この事件が会社にとっては好機となったのだろう。

エラは既に自分のアパートに帰っており、妻だけが家にいるのだろう。悲嘆にくれて家に戻ってきたルーは犬だけを家に入れ、リードの鎖を手に持って自分は一人ガレージへ向かう。

マップスがナレーターとして登場する。ルーのその様子を説明している時、突然、舞台裏からエラが出てきてマップスに縋り付く。そう、彼女は劇中から観客の側に半歩、出てきたのだ。「だめ。そんな結末は受け入れられない。絶対いや!」と嘆願する。そして「私はこのままでどうやって生きていけばいいの!?」と天を仰ぎ泣き叫ぶ。ついには観客に向かって「わかった。パパの望み通り、結婚するわ!。誰か私と結婚して。」などと訴えかける。

だがマップスは、「ストーリーは変えられない」と言い放つ。

そこに父親が出て来る。手に鎖のリードを持ったまま観客に向かって立っている。そこにかつて娘の誕生日を部屋に飾ったであろう綺麗な色の風船が、つぎつぎに天井から降り注いできて、ルーとエラの周りを包む。

そして静かに暗転して最後のシーンとなる。自分の部屋にいるエラに母親から電話がかかってくる。母親は言う「座って聞いて」と。

母親の「私たちは精一杯やったわ」という呟きは、実は観客への問いかけなのだろう。確かに誰が悪いということはなく、皆一所懸命だったのだ。しかしそれぞれの不健全さによる些細なヒビがある一点に集まった時、破局へ向けた展開が生じる。この現代社会にも通じる永遠の理を、改めて教えてくれる作品だった。本作品は、何気ない日常会話を通して、見る者の意識の上に一人ひとりの登場人物がはっきりと浮きあがってくる手の込んだものになっている。ラスト10分間に急激にサスペンス度が増すクレッシェンド感もすごい。また当初、存在目的が分からず気がかりだったナレーターのおかげで、辛いながらも悪くない後味になっている。もし彼女がいなかったら、ラストシーンはただの「母親からの父親の死を知らせる電話」となり、娘の後悔は想像に任されることになる。あるいは彼女が悲しみに浸るシーンをつけ加えることになるだろう。ところが娘のエラがナレーターと同じ空間に入ったことで、終わりが劇的になっている。しかも彼女の嘆きは事前に見る者の心に沁み通っているので、父親に厳しく当たった娘への批判でいっぱいにならずに済む。そんな批判は作者の望むところではなく、観客が社会に目を向け、互いの行動のありかたや、気持ちの持ち方を見直して欲しかったに違いない。今後の作品が楽しみな脚本家だ。

ところで最近のアメリカ人は、物事への許容力が落ちて、精神的に弱い人が多くなってきたように感じる。以前はアメリカ人といえば力強い心身と、柔軟な包容力を持った、おおらかで明るい人々という印象が強かった。しかしここ数十年で随分変わった。彼らの内の何人かは、自分が信じる考え方に沿わない言動を見つけると、それがどんなに些細なミスでも許せないようで、それがSNSによって大きな声を与えられ、実に面倒で住み難くくなってきた。そんな社会ではせめて、傍らにいる親しい人達に素直に愛情を伝えらたらいいなあ、と思う。(3/22/2023)

The New York City Center – Stage I
131 West 55th Street
公演時間:90分(休憩無し)

舞台セット:8
衣装:6
照明:8
キャスティング:9
総合:9
©️Marc J Franklin
©️Manhattan Theater Club

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